京都のくらし・昔の知恵~京の春のすまい方①花見のはじまり基礎知識
【花見のはじまり】
「花見」は、奈良時代の貴族の行事が起源だといわれています。
文献上の初出は、奈良時代の地誌『常陸国(ひたちのくに)風土記』で、「桜の花咲く春に(中略)神に供へる食物を携へ馬に乗り、あるいは歩いて山に登り、楽しみ遊ぶ」とあり、花見は娯楽的要素の他に、神が鎮まるとされる山に登るという、儀礼的な禊(みそぎ)を意味するものでもありました。
平安時代、「花見」は宮中での行事「節日(せちにち)」となります。
平安初期の歴史書『日本後紀』の弘仁3年(812)の条に、「神泉苑にいでまし、花樹を覧じ、文人に命じて詩を賦せしめ、(中略)花宴之節(かえんのせち)はこれにおいて始るや。」と記され、これが「花宴」の始まりとされます。後にこれが貴族の遊びとして「桜狩」とも呼ばれるようになります。
「花宴」は、その後場所を神泉苑から宮中に移し、天皇主催の定例行事となります。
その様子は『源氏物語』の「花宴(はなのえん)」の冒頭に「2月の20日あまり、南殿の桜の宴させ給ふ。」とあり、当時の様子が描かれています。
また、貴族達の間でも桜を柳と共に邸内に植えることが流行り、『古今和歌集』に「見渡せば柳桜をこき混ぜて都ぞ春の錦なりける」と歌われています。
鎌倉時代になると、後嵯峨上皇は嵯峨に離宮を営み、その背後の嵐山に吉野の山桜を多数移植させて花見を楽しまれました。
また、吉田兼好の随筆『徒然草(つれづれぐさ)』にも「花は盛りに月はくまなきをのみ見るものかは」とあり、当時の「花見」の風情を描いています。
室町時代には、世に「花の御所」と呼ばれた「室町殿(むろまちどの)」が足利氏の手により完成して、この頃より桜狩が行事となり、足利義政などが京都東山や大原野に豪華な花見を行うようになります。
そして動乱の戦国時代を経て、安土桃山時代、慶長3年に豊臣秀吉が「醍醐の花見」を行なった話は、あまりにも有名です。
江戸時代に入ると、一般庶民の間にも花見が盛んになり、多くの名所が誕生しました。
なかでも御室(おむろ)や嵐山、清水寺などの東山方面に多くの人々が花見に出かけ、今なお多くの人々で賑わいを見せています。
登録者 | 京安心すまいセンター |
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最終更新日 | 2015-04-05 11:16:14 |